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非定型うつは甘え?非定型うつの原因と解決方法について検討してみる

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さて今日は久々に、うつ病的な話題を取り上げることにいたしました。

 

コアトルはこのブログでも何度か述べておりますが、中学校くらいの時から、ずーっと、波のように来るうつ的な状況に苛まれてきました。

気分の浮き沈みが激しいのは非定型うつかもしれないし他の病気かもしれないでも書いたように、

気分が良くなったと思ったら、ある日突然憂鬱になって、その状態がしばらく続く、、、ということを繰り返して生きております。

 

この問題について、前の記事を書いてからもずっと考えていたのですが、これはやはり非定型うつ病であるに違いないと結論づけるに至りました。

非定型うつの症状について

darksouls1 / Pixabay

最初に、非定型うつの症状に関する基本的な事項をおさらいしておきましょう。

 

非定型うつの症状は様々であると同時に、一部は他のうつ病(メランコリー型など)と区別が難しいものもあるのですが、一般的には、

1:良いことがあると気分が良いが、悪いことがあると途端に鬱っぽくなって頭から離れない
2:寝ても寝ても、眠いし、朝なかなか起きられないのがほとんど毎日続く
3:気分が悪い時と言っても、自身で命を絶つというようなことまでは思い詰めることはない
4:生活に支障が出るほどではない程度の、全身的な倦怠感がある。
5:気分が悪い時には、周囲との人間関係などどうでも良くなり、あえて嫌われるような態度をとってしまう
6:一時的な過食症状が発生する場合がある
7:性格的に、外聞(周囲からの評判、近所の目など)を著しく気にするタイプである

などであります。

ここでは7個挙げましたが、例えばこのうち4個以上当てはまるようであれば、非定型うつを疑った方が良いかもしれません。

 

もちろんコアトルの場合は、この全てに当てはまりますが、個人的意見としては、特に1と7の両方が当てはまっていて、4つ以上当てはまるようなら、

 

かなり注意した方が良いのではないかと思います。

非定型うつ症状の特徴

もう少し症状を掘り下げますと、他のうつ病とこの非定型のうつ病の一番の際立った違いは、1番であげた「良いことがあると気分が良いが、悪いことがあると途端に鬱っぽくなって頭から離れない」という部分です。

 

一般的なうつ病になってしまいますと、全く朝起きられないほどになり、社会生活の遂行がほとんど全く困難になってしまうのですが、非定型うつの場合は、

 

良いこと、あるいはストレスからの短期的な離脱を実感すると、気分的にも相当改善される、という点であります。

 

これは、いわゆる適応障害の症状とも似た部分があるというのは特筆すべき点かと思いますが、この部分がよく「甘え」と言われてしまう。

 

※適応障害について詳しく知りたい方は関連記事を参照いただければと思います。

非定型うつは甘えか?

larionov / Pixabay

これは一言で回答するのが難しい。

 

というのは、他者から見れば完全に甘えにしか見えない一方で、罹患者本人にとっては、「自分が甘えている」という状況を理解できない状況だからです。

 

また場合によって、「甘えるのを我慢している」という表現すら正しいかもしれません。

 

「嫌なことから逃れたい」という感情は普通のことです。

 

しかし、非定型うつにかかるような人は、この感情を悪感情として認識し、恥ずかしいこと、情けないこと、あるいは「嫌なことからは逃れられない」という諦めの感情さえ持っているからです。

 

本質的に言えば、非定型うつは「人生を誤解しているので、結果的に甘えている」というのが正確であると思いますが、その理由については、これからじっくり説明していきたいと思います。



非定型うつの原因は何か

さて、この非定型うつ病なる、新種の精神病状は一体何が原因で発症するのでしょうか。

 

以下、自己診断により、自分は非定型うつであると信じているコアトルの個人的な見解として、論を展開していきたいと思います。

 

思うに非定型うつの原因は、一言で言えば、ポスト団塊ジュニア以降の世代で、かつ中流家庭以上の環境において育ったタイプの人が陥りがちな思考・行動パターンである、

 

ということに尽きると思います。

これについてもう少し具体的に見ていきます。

ポスト団塊ジュニアの養育状況

ポスト団塊ジュニアと言っても少し幅がある概念なのですが、ここでは1980年〜1990年代前半に生まれた人がその世代であるとして論を進めていきたい。

 

この世代に中流家庭に生まれた人は、その親が持っていた前時代に対するルサンチマンを一身に背負わされた世代であると言って差し支えない。

 

どういうことかと言いますと、昔は大学と言ったら「東京帝国大学」しかなかった時代があって、その後いろんな大学ができましたが、いずれも「帝国大学」で、

 

今我々が想像する大学と同日に論じたら、出身者に殴られるくらい失礼な、それくらい超のつくエリートだったわけですね。

 

街で一番優秀な、選ばれた人だけが行けた大学、それ以外の人は、地元に残って農作業や稼業の手伝いをして、苦労に苦労を重ねて、、、、という世界だったわけです。もちろん少しばかりの誇張はありますが、、戦前から戦後直後までは、大抵大学に行く、ということは、お金もかかるし、地頭もよくないと行けないという、本当に厳しい競争の世界だったわけです。

 

ところがポスト団塊ジュニアの時代になると、いよいよ大学は全入時代に近づくとともに、何よりも、教育にお金をかけて、塾に行かせれば、日本中のどんな田舎に住んでいても、

 

自分の子供を旧帝国大学に進学させることができるような時代になったわけであります。

 

こうなると相対的な旧帝大の価値は下がるに決まっているのに、いつまでも爺さん婆さんの語っていたような旧帝大のイメージ、すなわち「末は博士か大臣か」というイメージを引きずってなお、

 

自分の子供を自分やその親世代が果たせなかった復讐のための道具として使おうとする、

 

そういう認識の両親の下で生まれた人が多いのです。



(いわゆる)毒親の発生

Lichtpuenktchen / Pixabay

さて、子供というのはいつの時代も、親にとっては「道具」としての側面がありました。

 

はるか昔は神に捧げる生贄だったかもしれませんし、もう少し時代が下ると、労働力として幼少期から農作業などで働かせるのが当然だった時代もあるでしょう。

 

そしてポスト団塊ジュニアは、親にとってなんの道具だったかというと、先ほど述べたように、親世代のルサンチマンを解消するための道具だったわけであります。

 

具体的には、子供にいい教育を与え、いい大学に行かせて、いい会社に入らせる、あるいは博士号を取らせて教授にする、医学部に行かせて医者にする、、、

 

など全時代のエリート街道を進ませることにより、(ここが重要なのですが)子供ではなく自分の、つまり親側の欲求を満たすために、親が思う通りの道を歩ませる、

 

そのために子供が存在していると理解いただいて差し支えありません。

 

この論理の一等厄介なところは、表面的な論理においては、絶対に親が負けることがない、ということです。

 

いい大学に入っていい会社に就職する、ということ自体は、親はもとより子供にとっても悪い話ではないからです。

 

ただ、親がそのために子に与えるしつけや家庭内の教育、指導はエスカレートしてしまう。親は子供の人生指南の専門家ではないですし、何よりも全然名家でも由緒ある家でもないただの農民の子孫の末裔である中流家庭にとって、エリートの道など全く未知の世界だったからです。

 

このような背景から発生したのが毒親でありまして、興味深いことに、ちょうどこの時代に毒親が登場する作品が登場していることであります。

親世代は、戦後混乱期から1950年代前半に生まれた世代(団塊の世代、しらけ世代、断層の世代)に相当する。親世代は高度経済成長の恩恵を多大に受けて育った世代であり、1975年と1980年の生涯未婚率も僅か2%であった[3](「一億総中流」も参照)。つまり、「結婚子持ちが当たり前、結婚子持ちで一人前」という風潮が強いという事であり、裏返すと、子供の権利という意識が希薄で、育児に不適格な者でも結婚子持ちができた時代だったと言える。この時代を象徴する作品として、『ドラえもん』(1979年アニメ化)や『あばれはっちゃく』(1979年~1985年)など暴力や暴言で子供を抑圧する「毒親」を描いた作品が代表的である。

ポスト団塊ジュニア wiki

自分の意思が薄弱な世代

kalhh / Pixabay

ちょっと背景説明に深入りしてしまいましたので少し結論へと急ぎますが、ポスト団塊ジュニアの世代は、上に述べたような理由から、自分の意見や意思が相対的に薄弱である世代と断言して間違いない。

 

親のしつけは厳しく、親の顔色ばかりを伺う生活に慣れており、親のいうことに反発はするけれども、それは自分の意思ではなくて、親からの逃避行動によって偶発的にでた意思であるから、「本当にやりたいこと」を反映しているわけではない。

 

親という、長年同じ空間で生活する存在から長期的なストレスに晒されていた世代にとって、長期間高ストレスに晒されるのに違和感のない世代であるとも言えるでありましょう。

 

そして一番大事なことは、「楽しみを探す努力すら放棄してしまう世代である」ということです。

 

親からの抑圧が強すぎるため、青年時代にはいろいろなことに興味を持ちますが、親の理解が得られることは稀なので、放棄せざるを得なくなってしまう。

 

こうなると長じてからは、楽しみ(幸せと言い換えてもいいかもしれませんが)を見つけることすらやめてしまうし、それが一周回って「何をしても楽しく感じられな」くなってしまう。

 

ポスト団塊ジュニアの親世代、私はあえて「毒親世代」と読んでいますが、この子供たちが変化を感じるのは、親が用意した場合のみで、それ以外、自分の意思や意見によって現状を変更する取り組みは全て成功することはない。

※私の毒親体験をまとめた記事も参照ください

 

そうすると、どういう思考回路になるかというと、今の会社の人間関係は非常に悪く、毎日がストレスであったとしても、それが子供時代に毒親に対して毎日感じていたストレスと似ているので、そこから逃げ出すということを全く思いつかなくなってしまう。

 

長期間の人間関係的ストレスに付き合うのは普通のことだし、別に他にやりたいこともないので、転職するという選択肢が思いつかないし、あるいは毒親に仕込まれた、歪みのある「恥と外聞」概念がちらついて、逃亡を意味するような転職と勘違いしてブレーキがかかってしまう。

 

結果的に、世の中の全ての事象について、受動的になってしまっているが故の不幸なのであります。

 

だからこそ、最初に述べたように、非定型うつの特徴として、「良いことがあると気分が良いが、悪いことがあると途端に鬱っぽくなって頭から離れない」というものがあるわけです。

 

「良いことがあると気分が良い」ならば、「良いことが続くように自分で努力すれば良い」という当たり前の発想が、全く湧いてこない。

 

いや、頭ではわかっていても、行動に移すことができない世代なのであります。

 

これが非定型うつ病の本質であって、その原因は結局のところ、日本の経済状況の大変化が生み出した1億の中流家庭が、子供をルサンチマン解消の道具として用いたことである、と断言して構わないかと思います。



非定型うつを克服するにはどうすれば良いのか

voltamax / Pixabay

今回ルサンチマンという、ニーチェが再定義して有名になった言葉を用いた以上、この克服にもやはりニーチェの概念を用いるのが望ましいでしょう。

 

それが「最後の人間」という概念です。

 

ただ、この言葉はむしろフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」という本で有名になりました。

 

先に結論から申し上げれば、ポスト団塊ジュニア世代の人で、非定型うつ病に悩んでいる人は、このフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」を読めばかなり症状が改善されると思われる。


我々が毒親から押し付けられた無茶苦茶なしつけや道理は、実のところそこからさらに100年前の時代背景を根源としている。

 

つまり良い大学、昔の帝国大学は元々は官僚を養成するための大学だったわけです。これは西洋に負けないような近代化を推し進めるために必要不可欠であった強力な官僚機構を構築するためのものだったのですね。

 

今となっては、そのような国立大学の持っていた元々の意義はかなり薄れているのですが、ポスト団塊ジュニアの親世代は、当時もなおその亡霊に取り憑かれていたわけです。

 

1980年にもなってですよ!!!

 

そしてまた、1989年に、皮肉にもポスト団塊ジュニア最盛期に、その親世代が持っていた浅はかな思想を打ち砕くような本が発表されました。それが上に紹介した「歴史の終わり」です。

 

これは本を買って読んでいただくのが一番いいのですが、何を言っているかというと、誤解を恐れずに言えば、

○もう国同士の大きな戦争はないよ
○民主主義という政治システムが変わることはもうないよ
○今まで歴史で学んだような、教科書に載るような歴史的な変化というのはもう起きないよ

ということを主張しているわけですね。

 

そういう風に理解しますと、少しばかりの飛躍を恐れずに言えば、「毎日楽しく生きたもん勝ちだ」ということになります。

 

歴史的観点から見れば、今は最大級に安定した時代であるので、一日一日を刹那的に楽しむこと以外に、むしろ生きる意味はほとんどないと言って良い。

 

昔ならば、戦争に行って武勲をあげて戦死するというのも一つの立派な名誉になり得る時代がありました。

 

ありました、というかずーっとそうだったのですね。しかし今はそんなことはないと。

 

そうであれば、自分が自分のためだけに、楽しく幸せに生きるということ以外に生きる意味はないじゃないかと。

 

しかし厄介なのは、こういう風な刹那主義的な考え方は、毒親からは口すっぱく厳禁されてきたことです。

 

毎日コツコツ努力したその先に成功があるのだ、と。

 

それを否定することはありませんが、しかしそれが刹那的な楽しみを享楽しては行けないということにはなりません。

 

ここまで言ってもいまいちピンとこない人がいるかもしれませんから、もっと具体的に申し上げて起きましょう。

 

刹那的な楽しみと言っても、すでに非定型うつ症状にある人は、あまりやる気が出ないかもしれません。

 

また漠然とやりたいことがあったとしても、お金がネックになっているかもしれません。

 

きっとあなた、無駄に100万円くらいは貯金があるでしょう。あるいはもしないなら、ちょっと我慢して貯めるから、あるいは消費者金融から借りてください。

 

それで100万くらいパーっと使ってしまうことです。

 

これが1番の治療法です。

 

できるだけ楽しい楽しい使い方。

 

男なら風俗でもいいし高級クラブでもいい、女性ならブランド物を爆買い(まあ100万円だとあまり高価なものは買えませんが)、高級レストランで爆食するなど、とにかくパーっと使ってしまう。

 

人間の脳というのはシンプルなもので、一度しめた味はなかなか忘れない。

 

だからこれが原体験となって、翌日以降のエンジンになるのです。そしてまたお金ができたらパーっと使う。

 

そうしてるとお金がもっと欲しくなる。だから頑張ろうとなる。

 

同じ会社だと昇給ペースが遅いから、転職しよう、あるいは副業を始めよう、となる。

 

現代というのは、他者のために生きる、ということの価値が極端に落ちている時代です。(金銭的な対価がある場合は別ですが)

 

一昔前の綺麗事など、全く時代遅れであって、自分の自分による自分のための世界をいかに生きることができるか、これが人生の意味であり目的なのです。

 

これを誤解して、良い大学に行かないと意味がないとか、いい会社に入らないと恥ずかしいとか、どうでもいいことに拘っているから、精神的な変調をきたして、

 

うつ病などという病気になってしまう。

 

人生の誤解を解くということが非定型うつの治療にとって最も重要なのであります。



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