コアトル偉人伝 実践と研究で金山を掘り当てた相場師是川銀蔵の人生

偉人伝

コアトルが好きな偉人は沢山いますが、その偉人達を順番に紹介していくコーナーのコアトル偉人伝というのを酔った勢いで作りました。

 

どこまで続くか分かりませんが、記念すべき第一回目は有名な相場師、是川銀蔵氏を取り上げます。

 

是川銀蔵は人為的な相場を作って大儲けを試みる、所謂仕手戦で有名になった相場師ですが、その人生やパーソナリティー、哲学にはその辺の株屋とは同日に語る事の出来ない部分があると思います。



生まれは貧しい漁師の子

兵庫県赤穂市の貧しい漁師の七人兄弟の末っ子、小山銀蔵として生まれる[2]。小山の家は赤穂では有名な旧家であったが、明治維新で没落した。一家は3才の時に神戸へ転居し、尋常小学校を卒業した後、14歳で貿易商の好本商会の丁稚となる[3]。1914年に好本商会が倒産すると、ロンドンを目指し出国するが、中継地の中国の大連に着いたときに第一次世界大戦が勃発した。日本軍が山東半島の龍口に上陸したため、軍との商売を目指して龍口へ移った。軍が青島へ向かうと徒歩で追いかけた。途中で金がなくなり生死を彷徨いながらも軍の出入り商人となり、貿易会社小山洋行を設立した。食料品や桐を扱って利益を上げたが、軍の高官に対して饗応を行った為、1915年に贈賄容疑で憲兵に逮捕された。未成年であったこと等を理由に無罪となり、日本へ帰国した[4]

出典:wiki 是川銀蔵

この手の「長じて大成する偉人」の祖先には、名士的人物がいることが多いように個人的には思います。あまり優生学的には考えたくありませんが、なにか大物になる血、DNAの作用が無視出来ないような気がします。

 

それから生い立ちに着目すべきはやはり10代そこそこでロンドンを目指し出国したことでしょう。

 

当時は今よりも海外渡航のハードルが高かった時代、好奇心おう盛な子供時代の銀蔵氏には、外国は後先考えずに飛び出せるほど魅力だったのかもしれませんが、この行動力、というものが成功への大きな要因であるように思います。

 

未成年で軍の高官に饗応して強制帰国なども、彼の大胆さや向こう見ずさ、あるいは生への渇望の結果だったのかもしれませんが、その大物ぶりをあらわすものとして注目すべきエピソードだと思います。

破産するも債権者は大目に見てくれるほどの人間性

日本に戻り姉婿の縁で龍野市で貝ボタンの工場を経営していたが、自由に活動するために工場を兄に譲り1919年に大阪へ移った。伸鉄工場を作り、亜鉛メッキ工場を買収して大阪伸鉄亜鉛メッキ株式会社を作り、260人の従業員を雇用するようになった[6]。1923年に関東大震災の一報を受けるとバラックの需要を見越してトタン板と釘を買占め、巨利を得た。この取引で得た利益は他人の不幸によるものとして、半分を大阪府へ寄付した[7]。
1927年に昭和金融恐慌が発生し、預金している銀行が破綻したことなどから倒産してしまった。債権者達は理解があり、事業の継続を支持したが是川は経営を債権者に任せて引退した。恐慌を経験したことから資本主義に対して懐疑的になり、3年間図書館に通い詰めて世界情勢、投資理論を独学した。その上で恐慌は景気循環によって生じる予測可能な変動であるとして資本主義の仕組みは衰退しないと判断した[8]。

出典:wiki 是川銀蔵

帰国した銀蔵に関する特筆すべきエピソードとしては、やはり「使えるものは最大限使って」いるという点でしょう。

 

あなたは仮に姉婿が貝ボタン工場の経営者だったとしても、そこの経営権を貰うよう交渉できますか?

 

もちろん、親戚や両親の斡旋もあったかもしれませんが、我々凡人には、遠慮、世間への体裁、矜持、プライドなどが邪魔をして、とてもおいそれとは出来ない事だと思います。

 

関東大震災時のエピソードも面白い。時に強引さとスピードが勝敗を分けるという教訓でありましょう。

 

これと同じように、関東大震災時、灰と化した東京都内の住宅跡地に、自己の(でっち上げた)所有権を宣言する立て看板を片っ端からたてて、もし所有者が本当に犠牲になっていれば、そのまま取得時効を援用して土地を取得したというエピソードを持つ人物として、西武グループ創設者堤康次郎が有名です。

 

最後に、震災で取引銀行が破綻したため倒産をしたものの、債権者が事情を理解し、事業の継続支援を申し出てくれた、というエピソードについても興味深い。

 

当時の世相から、また倒産理由が天災ですから、債権者が理解するのも当然と思われるかもしれませんが、世の中そんなに甘くありません。

 

当時これが原因で鈴木商店という当時三菱商事に匹敵するほどの総合商社が破綻しているくらいですから、銀蔵への債権者の理解は例外的な物であったと考えるべきでしょう。

 

銀蔵は事業において得た資金を元でに、株式投資を始めます。相場師として有名な彼の株式投資デビューは意外にも遅く、34歳の時でした。

1931年、34歳で70円を元手に大阪株式取引所で株式投資を始め、年末までに7000円に増やした[注釈 1][9]。1933年に大阪堂島で「昭和経済研究所」(後の是川経済研究所)を設立し、研究と指導を行った。商品先物を扱う大阪三品取引所では1935年に綿の世界的凶作を見越して綿を買い、売りに回った昭和綿花株式会社の駒村資平と仕手戦を数ヶ月続けた。買い方が優勢で約300万円の利益があったが、解け合いを断った後に相場が反転し、逆に1万数千円の損失を受けた[10]。
各国の経済動向の調査から、アメリカ、イギリス、ソ連が水面下で極東に向けた軍拡を行っていることを予測し、軍・財界・マスコミへ警告を行った。当時は米英との親善外交が主流であり憲兵隊などから取調べを受けたが、企画院の沼田多稼蔵の理解を得て陸軍へ進言するようになった[11]。1938年に朝鮮半島東部・江原道に是川鉱業を設立。これを短期間で軌道に乗せた後、1943年には是川製鉄株式会社を設立させ従業員1万人を雇用する朝鮮有数の大企業となった。朝鮮総督だった小磯國昭との知遇から、1944年の小磯内閣誕生の際には入閣要請を受けたが、断った[12]。戦後、国策会社のオーナーであるため、新生朝鮮の警察に逮捕されてしまう。処刑を覚悟するが、朝鮮人を平等に扱っていたことから、嘆願運動に発展し、釈放される。
戦後は1960年に大阪府の泉北ニュータウン開発でも土地投機を行い3億円を得て、株式相場への復帰資金を攫む。
相場師として市場で話題となったのはすでに晩年となった昭和50年代に入ってからで1976年の日本セメント、1979年の同和鉱業、1982年の不二家、1983年の丸善石油、平和不動産の株買い占め、仕手戦で名前が知られた。最も良く知られたものは1981年から1982年にかけての住友金属鉱山の仕手戦であった。

出典:wiki 是川銀蔵

そして伝説の住友金属鉱山仕手戦に進みます。

鉱業企業運営経験が活きた住友金属鉱山の大相場

是川銀蔵を一躍有名にし、長者番付1位に輝かせた要因は、この住友金属鉱山の買い占めです。

 

この買い占め劇は、背景に日本の保守的名門企業の代表格住友系の住友金属鉱山と、酸いも甘いも経験した男是川銀蔵との生々しい駆け引きや権謀実数が相見えた大変面白い物です。

 

興味がある方は、以下の小説を読まれると良いかと思います。ほぼ実話に基づきますが、読み物としても非常に面白いです。

簡単に内容をまとめますと、、、

•鹿児島県の菱刈鉱山で高品位の金脈が発見されたと発表され、鉱山の採掘権をもつ住友金属鉱山の株が上昇しだす。
•しかし700メートル間隔のボーリング調査の結果、2地点でのみ金脈に当たっただけで、700メートル連続して金脈が続いているという認識は多くの人が持たなかった。
•是川銀蔵は、朝鮮半島での鉱業企業経営の経験から、菱刈鉱山には十分な規模の高品位金脈があると考え、住友が持っていない、鉱山周辺の土地を5億円で買い占めた。(住友は土地所有者に3000万円での譲渡を打診しており足下をみまくっていた)
•紆余曲折を経て、この鉱山周辺の土地を、住友側が実費、即ち5億円で是川銀蔵から買い取ることにした。
•その数日後、住友側が、菱刈鉱山及び銀蔵が手放した土地には、高品位の金脈が連綿と続いており、埋蔵量は100トンを下回らないと公表した。
•結果的に銀蔵は事前に所有した土地を、本当はもっと価値があったのに、買った金額の5億円と同じ金額で手放した。
•しかし銀蔵は怒らなかった。

つまり是川銀蔵は、住友側に嵌められて、取得した土地を安値で買いたたかれたのである。

 

もっとも、公表後、住友金属鉱山の株はうなぎ上りで、既に銀蔵はこの株を大量に取得していたので、土地を安値で売っていたとしても、200億円の利益を得たと言われていますから、金持ち喧嘩せず、という心境だったかもしれません。

是銀に学ぶ成功の秘訣

是川銀蔵はそんじょそこらの相場師とは次元が違うと言う事が何となく分かっていただけたのではないでしょうか?

 

コアトルが思う、是川銀蔵に学べる教訓は、

 

•経験はいつ活きるかわからないから、目の前のどんなことにも興味を持って取り組め

 

ということに尽きるかと思います。

 

非常に当たり前のことで、学校の先生が言いそうなことですが、只の教師にそんなことを言われても実感がないし眉唾です。

 

しかし是川銀蔵の人生を見れば、その言葉が説得的に聞こえてくる気がするのです。