DeNAのウェルク(Welq)問題に見るインターネットの根本問題と未来像について

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コアトルの放言

このブログでもちらほらと、「脅威である」としてピックアップしていたDeNAが運営するキュレーションサイトWelqが、多方面から事実に基づかない内容の医療系記事を大量にアップしている等と批判を受けた結果、DeNA自身の判断で、非表示対応を実施しました。

コアトルこと私が運営するブログ群等とは比較にならない規模のサイトではありますが、やはり競合の1つであることは間違いありませんので、直感的には「ざまあ」という印象を持った次第です。

しかし立ち止まってよくこの現象を考えてみると、色々疑問が出て来てしょうがないのです。

例えば1つ目の疑問。

DeNAは本来的には記事を非公開にする必要等ないのではないか?

DeNAがウェルクをはじめとするDeNA Paletteというプラットフォーム上のサイトを非公開にしたのは、Welqのデマ記事問題が発端となっています。

御察しの通り、Welqは医療系サイトですので、その信憑性は読者の健康そのものに直結し、命にも関わる内容であるといっても過言ではありません。

そのようなジャンルのサイトにおいて、専門家の監修を受けずに、医療関係者でもない人が書いた記事が大量に掲載されているのは、少なくとも倫理上の問題があるに違いありません。

しかし、Welqに限らず、他のサイト、これは医療系のサイトでもいいですし、一般人の日記ブログのなかの健康に関する記事でもかまいませんが、こういった記事全てが、医療関係者の監修を受けているとは到底思えません。

Naverまとめだって、癌などの病気に関するまとめ記事が大量にありますが、これら1つ1つについて、キュレーターあるいはNaverの運営が監修を実施しているとも思えないのです。

Wikipediaはどうでしょう?
同じように医療系の用語について記載が沢山なされていますが、医師の監修を受けているのでしょうか?

しかもこれらの媒体に至っては、オープンプラットフォームで、一般の人誰もが作成、編集出来る代物です。

こうなってみると、Welqが記事を停止したのは、「信憑性の薄い記事を掲載していたこと」が理由ではなくて、「信憑性の薄い記事を掲載し続けることにより、会社の社会的信頼が毀損されることを恐れたから」というのが正しい理解かと思います。

DeNAはプロ野球球団も保有する大企業ですから、一般人や他の弱小企業よりも社会的責任がある。その一点が理由であって、記事の内容云々については正直どうでもいいと、DeNAの経営層側も思っているはずです。

現に、TechCrunch Japan‎のインタビュー記事でも、守安社長の受け答えは、責任を感じていることは伺いしれますが、個別の記事の内容に関しては全く他人事に聞こえます。

インターネットの矛盾の1つが、一方では「嘘を嘘と見抜けない人はインターネットを使うのは難しい」という見方のコンセンサスが取れている一方で、反対側では今回のように「内容に信憑性のない記事を書くのはけしからん」といって騒ぎ立てる。

こういう言い方をすると、「いや、少なくとも医療、健康ジャンルの場合は人の命に関わるから、信憑性がないとまずいのは当たり前だろう」という反論が必ずあるでしょう。

しかしそういう反論を聞くと、次の疑問が生まれます。



経済記事は、歴史記事は、物理学や化学記事などは信憑性がなくていいのか?

A株を買うと絶対に儲かる、と言う内容の記事は、倫理的に考えても絶対NGと思われますよね?

命に関わる内容は信頼性担保が必要だが、お金に関わる記事は信憑性がなくても大丈夫、等と言う議論が通用するとも思えません。

「誤った情報でお金を損する人がいるといけないので、経済記事にも監修(誰の?って感じですが)などの規制を儲けるべきだ」と言う意見も、ある意味では当たり前ではありませんか?

孝明天皇が暗殺されたのだ、という記事が検索上位に表示されていたとしても、その記事の内容が誤りだからといって表示を停止する必要はあるでしょうか?

そもそも、本当に暗殺ではないと誰が言い切れるのでしょうか?

「不敬だから表示を停止しろ」という議論も成り立つでしょうし、「通説的見解ではないから停止しろ」も成り立つでしょう。

光よりも早く動く物質を検知した、という記事が上位表示にあったからといって、それが誤りだから表示を停止すべきでしょうか?

水とサンポールと砂糖と塩で不老不死の薬が出来る、という内容の記事が上位に表示された場合、「間違った配合をして中毒死する可能性があるから記事を停止すべきだ」という意見も成り立つのではないでしょうか?

こうしてみると、どういった内容の記事は信頼性担保の為の手続きが必要なのかどうかについて、法律などで規制をする必要がある、などというパターナリスティックな議論も出てくるやもしれません。

こうやって考えると、「いや、Googleはよく考えて検索エンジンを作っているのだ。内容が明らかに間違っているものはそもそも読まれなかったり、ページ滞在時間が極端に短いので、上位には表示されない。そのような記事群は存在はしても、圏外なので存在しないに等しい。」

これを聞くと、さらなる疑問が生まれます。



何故Welqの記事は軒並み上位表示されたのか

Welqというサイトは、多くのアフィリエイターからも嫉妬に近い感情でもって否定的に取り上げられていました。

理由は多くの記事が、軒並み上位表示されていたからに他なりませんが、内容に信頼性がなかったのなら、どうしてそんなに上位表示されたのでしょうか?

これは情報の非対称性が原因でして、専門的分野であればあるほど、一般人と専門家との間の知識量の差が大きくなり過ぎて、一般読者は本当に正しく、信頼性のある記事を判別することが出来ず、結果として相対的に多く氾濫する「信憑性の低い記事」が多く読まれてしまったものと思われます。(レモン市場

もちろん、技術的なSEO対策の成果も大きかったとは思いますが、理屈でいえば、やはり情報の非対称性の問題が大きいように思われます。

このように、本来であれば圏外にとばされるべき内容の記事が、上位に表示されてしまう、という問題をGoogleが完全に解決することは出来るのでしょうか?

多くの人が見る=科学的知見に照らして信頼に足る内容の記事、という構図が成り立たない分野においては、Googleは無力です。

もちろん、Google自身が医者を雇って、医療系の記事を片っ端から監修し、内容に疑義があるものについては全て検索結果から排除する、ということをやるなら話は別ですが、コストがかかり過ぎるので絶対に無理でしょう。

また、ここまで来るとさらに懸念が生じます。

「検索エンジンの民主主義化」は正しいのか

人々の声が直接かつ平等に検索結果の決定につながるのだ、という考え方が、Googleの検索エンジンの根底思想にあるように思われます。

人々の声が直接かつ平等に、意志決定に役立てる、というのはあたかも古代ギリシャ時代の直接民主制を思い起こさせます。

今、このように直接民主制をとっている国は殆どありません。

殆どすべての民主国家は、人民の代表者の合議体で結成される議会を設けた、間接民主制を採用しています。

この理由は、まあ色々ありますでしょうが、端的に言えば、直接民主制の場合、「熟慮」がなされない、「ポピュリズムに流れがちである」という問題が発生するからであるというのが教科書的な解答です。(この考えも本当かどうかだれも保証しませんよ笑)

この直接民主制の欠点は、今回のWelq問題に如実に現れているでしょう。

1つは検索順位を盲信して、上位に表示された記事だという理由だけで、多くの人がそのサイトを訪れ、また多くの人はその内容の信憑性に疑問を呈さなかった。

もう1つが、記事を書く側の問題です。

選挙で言う得票数が、ネットでいうPVにあたるならば、読者たる選挙民にウケのいい、つまり良く検索実績があるワードやクエリに特化して記事を作ろうとなるのは当たり前です。

しかし、そういったワードやクエリをタイトルや本文に入れて、それなりの文字数で記事をまとめれば、内容についてはそれ程熟慮しなくても問題ないのだ、という考え方。

実のところ、このような熟慮の欠如やポピュリズムによりギリシャは衰退してしまいました。

後継国家ともいえるローマ帝国については、まあ長い歴史なので政治形態は元老院付きの共和政治、寡頭制、独裁、帝政など徐々に変化していきますが、間違いなく言える事は、最初の理念であった市民による民主的な意思決定と言うものは衰退し、ついには長い長い暗黒の中世が生まれたのです。




インターネットも中世を迎えるかもしれないが暗黒ではなく明るい?

中世の時代はキリスト教が幅を利かせた時代で、よく暗黒の中世とも言われます。

この時代に栄えた学問は、今の科学からはまったくかけ離れたものでして、有名なのは、「神様の指の上で何人までの天使が踊れるか?」ということについて、延々と議論していたという話が伝わります。(勿論これも本当に伝わった話かどうか信憑性はないですよ。)(スコラ哲学

簡単にいうと形而上学というもので、カール・ライムント・ポパー風にいうと「反証不可能」な主張が蔓延していたわけです。

もし各記事の科学的な根拠について、信頼性を担保出来る手続きをとらなければ専門的な記事の作成が少なくともモラル違反だと言われてしまうのであれば、ネット上で堂々と記述出来る内容は、このように誰から見ても反証、反論が不可能な内容の記事、ということになってしまいます。

○この服は絶対お勧め!
○このお店は美味しい!
○私を拝めば幸せになれる!
○功徳をつまないと地獄に堕ちる!

みたいな、案外以前からネットで良く見かけるような内容なのが驚きですが、結局、こういう内容の記事しか大手を振ってかけなくなります。

しかし人類史上の中世の場合、キリスト教という絶対的存在がいて、そこの見解が唯一正しいもの、それ以外は迫害される、みたいなざっくりいうとそういう世界だったわけですが、現代のインターネットはそういうわけでもありません。

いきなり思いつきであらたな教義をネットで展開しても、誰にも文句を言われる事はありませんし、少なくとも筋合いはありません。

つまり正とも偽とも言えないような問題について延々と記事が量産され、その時々の人々の心にささった内容の記事が読まれるが、それが絶対的に正しいとも間違いとも言えないので、相対化が難しいことが返って閲覧数を分散させ、サイトの検索順位上の強さが平準化される。

一方で、反証可能な専門的知識については、ネットで探す事が増々奨励されない時代になるでしょう。

これまでもそうでしたが、Googleの理念としては、専門知識についても検索で正しい物が取得出来るということを目標としているはずですが、これには今の段階では相当のコストか、または行政による厳重な規制かのどちらかが必要となります。
(例えば一定のジャンルのサイトについては届け出制または許可制にし、許認可のない特定ジャンルのサイトはマンパワーでBANするなど)

一縷の望みはAIで、これは全くどこまで出来るのか未知数ではありますが、いくらディープラーニングを施しても、臨床無しに医療的見解を記述するようなサイトはそれ自体やはりモラル違反です。

ただ誤解して頂きたくないのが、専門的知識については、見る側からすると推奨されないが、書く側からすると引き続き執筆されるということです。(見る人は一定数いるので。)

ただ、それを書く事にはリスクがあると、今回のWelq事件で皆が認知させられました。

また仮に監修付きの記事を掲載したとしても、反証可能であることが科学である以上、どうやったって「この見解はおかしい」と言われる余地が出来てしまうのです。

それ余地自身が専門的知識であり科学である根拠なわけですから。

そうすると、最早いかなる監修を受けても、絶対に正しい記事を書き続けるのは事実上不可能であり、Welqと同じ轍を踏むリスクを避ける事はできないのです。

またそういうリスクは、規模の大きい企業であればあるほど取りづらいので、ぐっと卑近な話に戻せば、我々のような個人のブロガーやアフィリエイターは大資本を恐れることはないのであります。

恐れるべきはカリスマでありまして、針の上で天使は3人までしか踊れません。その理由は!?的な形而上的な内容の記事にもかかわらず、大人気を博すような執筆者。こういう存在には理屈では太刀打ちできませんので、出来るだけそういう人が出てこないのを、1ブロガーとしては願っていますが、いつかはきっと現れることでしょう。