富の蓄財や労働に関するキリスト教とユダヤ教の考え方の違いについて

Didgeman / Pixabay
コアトルの宗教探求

キリスト教というのはユダヤ教がベースにあるのは、旧約聖書がユダヤ教の聖書で、新約聖書がキリスト教の聖書であることからも何となくは知っています。

 

旧約、新約の約はそれぞれ神様との約束の約でありまして、ユダヤ教から発展的に現れたキリスト教にとっては、その元となったユダヤ教の聖典である創世記以降に随所に語られるような神様と約束のさらに後に交わした約束であるから、新約聖書と読んでいるわけであります。

 

ですからユダヤ教徒にとっては、別に新しく神と契約をし直したわけではありませんから、別に旧約でもなんでもないわけですが、まあ俗人の我々は便宜上そういっているわけです。

 

ところが、それぞれの宗教は同じ源流を持ちながらも、当然違いがあるわけですが、その違いについて我々は意外と知らない事が多い。

 

違いを1つ1つ挙げていけば切りがありませんから、今回は富の蓄財、あるいは労働というものの考え方の違いに絞って記載していきたいと思います。

キリスト教は富をどのように捉えるか

Didgeman / Pixabay

まず前提として申し上げるのは、ここで言うキリスト教というのは原始的なキリスト教の流れを汲むキリスト教でして、ルター以降のカルヴァン派などの新教の話は後回しにするということです。

 

その宗教改革以前のキリスト教にとっての富の考え方ですが、少なくとも救世主であり神であるイエス自身が、非常に貧しかったこともあってか、富というものに対して好感をもっていない、というのが原則的な考えです。

 

キリスト教の教えには、「富めるものは財産を売り払って貧しい者に施しなさい」という趣旨のものがあります。

 

そして労働に対する価値観ですが、これもこういってしまうと非常に誤解される恐れがありますので、受け取り方には注意頂きたいのですが、ある一面においては、労働は神から与えられた罰だ、というような認識があるのです。

 

これはご存知アダムとイブがいたエデンの園という楽園から、二人が追放されたという創世記の事実に基づきます。

 

エデンの園にいた時は、二人は何の労働もしなくてよかったのに、追放されたがために、田を耕す必要が生まれました。

 

こういう背景から、労働自体は、神からの救済を受けるために実施するものとして捉えていたのですが、それと同時に、富の蓄積自体は忌むべきものとして考えられていたのです。

 

ところが、宗教改革以降のキリスト教の解釈は少し異なるものとなりました。

 

これが予定説と言う考えに基づくものでありまして、神があなたを救済するかしないかは、あなたが生まれる時から決まっているので、もし一生懸命労働をしたとしても、それによって結果が異なる事はない、という考え方です。

 

こう聞くと敬虔なキリスト教とは発狂しそうなものですが、そうはならなかったのです。

 

ルターはこのように説きます。

 

もしあなたが救済され天国に行くことが決まっている人間であるならば、きっと人よりよく働き、また善行を働くはずである。

 

こうやって目的と手段をカトリック時代の考え方とはひっくり返すことで、世俗における労働の概念を根底から定義し直しました。

 

このあたり、天職(ベルーフ)がどうだなんだという話はマックスウェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神に詳しいので、そちらを参考にして下さい。

 

少なくともカトリックの時代においては、富める者は天国にはいけず、労働自体も神からの罰という消極的な価値観でもって運用されていたのでありました。




ユダヤ教における富

ユダヤ教においては、カトリックとはまったく逆に、富というものが高く評価されていました。

 

ユダヤ人の先祖は、旧約聖書でいうとアブラハム、イサク、ヤコブの子孫と言われていますが、これらの人は神との契約に概ね忠実であったために、大変裕福な人物として描かれています。

この事実からもわかるように、神との契約をきちんと守っていれば、神が自身を富ませてくれるのは当然だと考えたのです。

 

もちろん、裕福だからといって、その財力を笠に着て、それを濫用したりすることは厳に戒められましたが、一方で富める人が他者に施しを与えることは、律法において義務とされたのです。

 

現代においてなお名が残るようなユダヤ人の大富豪、例えばロックフェラー一族などは、フィランソロピーと言われる社会奉仕活動乃至は慈善活動を活発に行ったとして記録が残っています。

 

ロックフェーラ家中興の祖、ジョンロックフェラーなどは、いつも外を歩いていると群がってくる乞食に対して、数ドルの施しを与えたと言われています。

 

そこまで有名なユダヤ人でなくても、慈善活動を目的とした非営利団体等に寄付をするユダヤ人は沢山います。

 

これは、彼らの戒律の中で、富めるものの義務として定義されているからです。

 

労働についてもカトリックとは全くことなる考え方です。

 

労働者は昔から手厚く保護され、賃金の未払いをする雇い主などには厳罰がかされていました。

 

富自体を高く評価するわけですから、その富の源泉となる労働を軽視するはずがありません。

 

こういうわけで、ユダヤ教は富を高く評価していたわけですが、ユダヤ人に裕福な人が多いのも、この辺りに秘密があるのかもしれませんね。

関連記事:ユダヤ教における食事規定について タブーとカシェル認証とは
ユダヤ人大富豪 マイアーアムシェルロスチャイルドの異常な敬虔さを表すエピソード