「見返りを求めないこと」はなぜ重要か 決して功徳を積むためではない

johnhain / Pixabay
コアトルの心理学探究

世の中にはいろんな偉そうな人がいて、人並みか、あるいはちょっと人より努力したか、あるいはもっとタチが悪いのが、生まれながらにお金持ちで、

 

悠々と育ってきたような人などが、突拍子もなんの脈絡もなく、急に偉そうな説教や訓示を述べてくるときがある。

 

こういうのは興醒めというもので、海より深く反省してブエノスアイレスにでも行って欲しいと思いますが、こういうお節介的説教の中に、

 

「他人に何かをするときに、見返りを求めてはいけません。」

 

という主張があります。

 

実のところこれ自体は真理なのであって、この精神というものは、現代日本において順風に生きていこうとするならば、

 

誰しもが持っていなければならない美徳であると言えるでしょう。

 

しかし、なぜ見返りを求めてはいけないのか、ということについてまでは、あまり深く語られないのであります。

 

「そんなこと当たり前だ。見返りを求めるなんて汚らわしいしこすいことだから、いうまでもなくいけないのだ。」

 

というようなスタンスなのかもしれません。

 

しかしこの理由をきちんと理解しておかないと、効果的に人に何かを施したりすることができないのです。



なぜ見返りを求めてはいけないのか

johnhain / Pixabay

はっきり申し上げれば、人に何か、無償で手助けをしたり、ものをあげたりするときには、受け取った側は、こう思います。

 

「この人は何か見返りを求めているのだろうか。。」と。

 

これは、与える側が、どんなそぶりを見せたとしても、仮に「いや、お礼とかいらないからな」とかいくら口すっぱく言ったとしても、

 

あるいは普段からその人が聖人君子みたいな人であっても、微かながらにそう思ってしまう。

 

そしてまさに、受け手側にそういう思いを抱かせることこそが、実質的な見返りを求めないということの最大の効果なのであります。

 

無償の施し、お手伝い、というのは、それ自体あなたの評判をあげるものかもしれません。

 

結果として、何も施しを与えていない、協力をしていないような人にも、いい噂が回る、というのも一つの効果かもしれません。

 

しかし何よりも重要なのは、受け手側に、ちょっとでも、「この人は見返りを求めているのではないか」と思わせることなのです。

 

もっと詳しく言えば、この疑念を抱かせることにより、相手に罪悪感を与える、ということなのです。

 

こうして考えますと、無償の援助とか、協力というものは、実のところ極めて考え抜かれて、残酷さを伴う行いなのであります。

 

これが成立する理由ですが、人間の行為、というものは、それが善意によってなされたのか、悪意によってなされたのか、他人からは全くわからない、

 

という事実に基づいています。

 

ある無償の援助、協力が、実は悪意に満ちており、後の具体的な見返りを求めているものであったとしても、受け手側がそれを疑うのは極めて非常識である、

 

という社会的通念ないし、人間の道徳的基準が横たわっている。

 

しかし、同時に人間の防衛本能として、これは何かの罠じゃないか、企みがあるのではないかと疑わずにはいられないという感情が屹立している。

 

この矛盾する感情を直撃し、疑いの感情を容易に罪悪感に転換せしめることができるからこそ、無償の援助は重要なのです。

 

この感情を抱いたら最後、受け手側は協力者に対して敵対的行動をとることは極めて難しくなる。

 

あるいは、協力者がのちに窮地に立ったり、困っているときには、助けずにはいられないのであります。

そして逆に、見返りを明示的に求めてしまうと、せっかく相手に生じた罪悪感が雲散霧消してしまい、あなたの優位的立場はすっかり崩れ去ってしまう。

そうすると、短期的には何らかの見返りがあるかもしれませんが、長い目で見ると、結局損をしてしまうのです。悪い噂は早く回るので、何か施しても、

受け手は一切罪悪感を感じなくなってしまうからです。

「見返りを求めてはいけない」論の陰謀的側面

skeeze / Pixabay

私は上記のことを考えるにつけ、「施しには見返りを求めるな」という主張は、実際に施しを与える側によって流布されたものであり、またこれは極めて施しを与える側に有利な主張であるとつくづく思います。

 

というのも「施しには見返りがあって当然だ」という社会的通念があったほうが、どれだけ楽かと思うからです。

 

協力者に見返りをする自信がなければ断ればいいし、あるいは協力を得るときに、「あらかじめ確認ですが、見返りは?」などと気兼ねなく聞ける。

 

昔ゴッドファーザーというマフィア映画が流行りましたが、あれなんか見るとよほど人間関係が明示的で合理的です。

 

娘を傷つけた男性への報復を依頼するときに、「見返りは何にしましょうか」とはっきりとマーロンブランド(ドンコルレオーネ役)に聞いているではありませんか!

 

そちらの方がよっぽど健全で、日本においては、無償の協力というものを建前にし、かつそれを、ジョージオーウェル風に言えば二重思考によって、

 

実質的には見返りを求めつつも、具体的な見返りを求めるのではなく、相手に罪悪感を生ぜしめ、相手からの自発的な見返りを(強く強く)求めているのであります。

 

こういう日本的態度は、実のところ多くの場面において未だに見られるのですが、この心理的作用ということをよく理解しておかないと、

 

悪いサイコパスに捕まったときに、本当に骨の髄までしゃぶられるようなことになりますから、十分に注意するようにしていただきたいと思います。