既に炎上案件となってしまった日本大学の選手による反則タックル問題を、大学のレポートみたいなタイトルによって、遅ればせながら取り上げたいと思います。
本件に関する洞察や意見はおおよそ全て出尽くした感じがしますが、ここではコアトルが思うことについて自由に述べてみたいと思います。
今回の社会現象は、例によってマスコミによって盛り上げられ、消費されているような感じがしますが、各時代においてマスコミによって取り上げられる事象は、
日本社会全体に横たわっている構造的な問題を浮き彫りにする作用がある、というのがコアトルの真理的持論であります。
今回の一連の騒動に関する報道で直感的に想起したことは、第一にハンナアーレントのエルサレムのアイヒマンであり、第二に、内田監督その他のコーチ陣は、「身分的格差の拡大と固定化」という日本社会が抱える一大問題のスケープゴートにされた、あるいは日本社会によって無意識に仕立て上げられたのだ、ということです。
エルサレムのアイヒマンについては、私は噛み砕いて説明する能力も紙幅も、また読者の興味もそんなにないと思うので割愛するとして、ここでは、スケープゴートにされたのだという直感について、掘り下げてみたいと思います。
反則タックルについてどう考えるか
社会の集合的無意識による内田監督スケープゴート説を考える前に、まずは今回の反則タックル発生前後の状況について簡単に振り返りたいと思います。
今回の件に関する指導者陣と、日大の選手間とのやりとりのうち、指導者陣からのコミュニケーションは、確かに常識を逸脱するような部分もあったかもしれません。
しかしながら、読者の方の気分を害するかもしれませんが、指示内容をやや恣意的に解釈すれば「関西学院大のクオーターバックの選手に、【うまくやって】強烈なタックルをお見舞いして、当分再起不能なほどの怪我をさせろ。但し、うまくやることが条件だぞ!念押しマーク」という指示だったわけです。
当然指導者(上司と言い換えても構いませんが)としてそこまで具体的に指示をすることは「責任問題」になる可能性があるので、日本特有の婉曲的表現で持って、回りくどく用意周到に伝達をしたわけですね。
本件の、指導者側の目線から見た表層的問題、というか反省点の一つは、指導者陣が選手に対して、この「うまくやって」という部分を上手に伝えられなかった、という事実でありましょう。
反則タックル直後の指導者側の率直な心境は「あの馬鹿野郎、あそこまで露骨にやったら守るものも守れないじゃないか馬鹿たれ。もっと微妙な笛のタイミングでやれよ。」ということに違いないと思うのです。
だってそうじゃなければですよ、単に関西学院大学のQBを怪我させるのであれば、試合中じゃなくったって、帰宅途中を強襲するとか、合宿所に忍び込んで毒を盛るとか、あらゆる手段があるのに、そういう違法行為の指示はできないから、「うまいことフィールド内でやれ」と言っているわけです。
ところがあの選手は、ホイッスルが鳴って、プレーが中断して相当程度後に(3秒などと言われていますが、これは十分相当程度後です)、背後から渾身のタックルをお見舞いしたと。
これははっきり言って、帰宅途中に待ち伏せして、路上で襲いかかるのとほとんど同じくらい悪質な、事実上の違法行為でありますから、
会見で指導者陣が「選手の言い分とは食い違いがあるよ」というのはある意味では当然のことなのでありますし、また今後どこまで追求しても、「はい選手のいう通りです」などと日大側が白状するわけがないのです。
「うまくやれ」と言われる弱者
ところで、上下関係の存在する人間関係において、上記のような「うまくやれよ」とか「うまく処理しておいてね」などと抽象的な言い回しで指示をされるケースというのは、
世の中にはゴマンとあるのであります。
「うまくやれ」、「適当にやっといて」などと言われて、それでうまくいけば、適切な指示を出した上司の手柄、失敗すれば、「うまくやれと言ったのにどうしてそんなバカなやり方をしたのだ」となって、担当者である部下が責められる。
こういうシーンはサラリーマン社会、特に湿り気の多い日本社会では、実は日常茶飯事なのであります。
労働人口における身分的ヒエラルキーは、どの会社や業界を切り取っても、少数の上役が、大多数の部下をマネージメントするピラミッド型ですが、
内田監督は、そのピラミッドの下層で、日々理不尽な指示を受ける人たちが容易に投影できる憎むべき上司像に適役だったのであろうと思います。
大多数の弱い立場の人たちは、内田監督ら指導者陣を、自分が憎む上司と見立てて批判して、そうして鬱憤を晴らしているようにしか思えないのであります。
これが私が、内田監督ら指導者陣が、日本社会から無意識によってスケープゴートにされていると考える一つの理由であります。
今回の件を冷静に見れば、どう考えても、指導者陣が完全に悪で、選手側は悪くない、という結論になるはずがないのです。同情の余地があるにしても、報道の内容はどう考えてもバランスを欠いているようにしか見えない。
ありえないことですが、もし世の中の大多数の人たちが、内田監督のように、社会的立場が強く、ヒエラルキーの上位に位置する人たちであったならば、
到底今回のような方向性で報道されることはなかっただろうと推測します。
あのように批判の槍玉に挙げらて悪者にされるのは、きっと指導者陣の意図を汲み取って、うまいこと行動ができなかった選手であって、変なおばちゃんが乱入したのも、同じく選手の謝罪会見であったことでありましょう。
社会によるスケープゴート対象の具体化
コアトルが、本件をそのように捉えるのは、もう一つ理由があります。
今から20年〜15年前までの間に、同じように社会からスケープゴートにされた対象があります。
それが公務員であります。
主に警察組織の裏金に始まる不祥事から、タクシーチケット問題、天下り問題などで、一昔前までやんごとなき集団であった国家公務員までが批判の対象になり、
連日それはそれはお祭りのような公務員バッシングでありました。
この時のスケープゴート事件と、今回のスケープゴート事件は、えも言われぬ類似点がある。具体的に何かと問われれば答えるのは難しいのですが、
兎に角似ていると感じるのです。
但し、今回大きく異なっているのは、前回のスケープゴートの対象が、「公務員」というやや一般的、抽象的な身分、組織的身分に対するものであった(キャリア官僚だけではなく、ノンキャリアのタクシーチケット問題や、地方警察組織もすべからく批判されていた)一方で、
今回は、監督、コーチなどという個別具体的な身分に対するものとなっていて、同じ組織に属していても、立場の上の人たちの理不尽な指示やしごきを受ける選手達は、むしろ被害者という構図になっている。
このアナロジーとして、ここ1年間、ずーっと話題になっている森友、加計学園問題も実は同じ構図ということがわかるかと思います。
つまり公務員組織の中には、強者と弱者が純然と存在していて、そのうち強い立場の人間だけが(佐川長官はじめ)ことさらに批判されていて、
(信念を曲げてまで)上司の命令を聞かなければならない弱者はかわいそうだと擁護されるという構図です。(この問題に首相のほか政治家が出てくるのは、野党が政争の具にしたいからであって、政治家に対する忖度問題だけを強調すると間違いなく本件に真理を見落とすものと思われます。)
そしてまたコアトルは、十数年前に発生した公務員バッシングもまた、格差社会のスケープゴートにされたという説を強く信じているので、
今回の一連も騒動もまた、同じように、格差社会の犯人にされているように思えてならないのです。
身分格差の拡大と固定化が深刻であることの証左か?
コアトルはあまり格差社会というものを肌感覚で実感したこともないし、また実態について詳しく調べたこともなく、なんとなくみんなが言うから、と言う程度の思考停止人間なのですが、
それでも、今回の騒動から推測する限りでは、単なる公務員バッシングが華やかだった15年ほど前に比べて、はるかに格差が広がって、かつそれが身分的様相を色濃くし、固定的になっているように思えてなりません。
公務員、と言う身分は、高卒であっても、試験さえ受かれば誰でもなることができました。と言うか今でもそうでしょう。
そういった実態を考えると、公務員一般に対する羨望というかルサンチマンなどから生じる批判は、今から考えれば可愛いもので、少し過剰反応だったという感じさえします。
しかし現在向けられている批判は、組織や職業一般に対するものではなく、間違いなく「身分」そのものである、という点が極めて重要と思われます。
「身分」つまり、マンモス大学の理事や学長とか、財務省の理財局長とか、つまり100人に1人が集まった100人の中で、さらにその中の1人を選抜して、そうして選抜された100人をさらに1人に選別して、最後にもう一回それら精鋭100人を集めてそこから1人だけ選抜したような、
ちょっとした努力とかでは到底到達することのできない、高貴なる身分そのものに対する攻撃なのであります。
コアトルは別に平等主義者ではありませんし、組織には一定の秩序が必要で、そのためにはピラミッド型の組織体を設置することはやむを得ないことと思いますが、
しかし一昔前のイギリスのように、ブルーワーカーの子はブルーワーカー、ホワイトカラーの子はホワイトカラーと、このように身分が次世代に渡って固定化されるような時代が、
日本にもようやく訪れていて、そしてまた、その社会的ストレスが深刻なレベルに達しているのではないか、と思われてならないのであります。
組織を維持するために必要なヒエラルキーが、返って組織を崩壊させてしまいかねないほどの毒に侵されていて、その症状はかなり深刻である。
この日大タックル問題から、そのようなことを感じたコアトルでありました。